Cardano の改善提案リストに、量子計算を前提にした署名の案が入りました。CIP-0197「Post-Quantum ZK Signatures for HD Wallets」です。既存の Ed25519 署名を置き換えるのではなく、ゼロ知識証明を重ねるという設計になっています。同じ更新では 5 本が確定扱いに移り、その中には DRep の投票力の偏りを技術的な課題として定義した文書も含まれていました。鍵の話とガバナンスの話が、同じリストの上に並んでいます。新しく入った 2 本と確定した 5 本を、それぞれ何を触る変更なのかという観点で整理します。
■ 置き換えないという選択
Cardano 公式アカウントは 8 月 23 日、Robert Phair 氏(@COSDpool)がまとめた改善提案プロセスの最新スナップショットを共有しました。新しく審査に入ったものが 2 本、確定したものが 5 本という内訳です。
新規 2 本のうち影響範囲が大きいのは CIP-0197「Post-Quantum ZK Signatures for HD Wallets」です。提案者は Pawel Jakubas 氏、現在の状態は Confirmed(番号が割り当てられ、技術面の検討が進んでいる段階)です。提案文書が置いている問題設定は率直なものです。
Cardano keys are Ed25519, broken by a quantum adversary via Shor’s algorithm.
(Cardano の鍵は Ed25519 であり、量子計算機を持つ攻撃者が Shor のアルゴリズムを使えば破られる)
ここで効くのが、Cardano のウォレットが CIP-1852 に基づく階層的な鍵の導出構造を採っている点です。ひとつの根となるシードから鍵の階層全体が導かれるため、提案文書は、署名に使うスカラー値がひとつ漏れればそのウォレットのすべての取引を偽造できるようになる、と説明しています。便利さの根拠になっている構造が、そのまま被害範囲の広さの根拠にもなっているということです。
では導出方式そのものを入れ替えればよいのかというと、そう単純ではありません。方式を変えると既存のアドレスが無効になり、ハードウェアウォレットとの互換性も壊れます。すでに資産が置かれている場所の住所を、一斉に書き換えることになるからです。
CIP-0197 が選んだのは、置き換えではなく補強でした。既存の公開鍵の背後にあるシードを知っていることを、ゼロ知識証明の形で示す層を追加します。今の署名はそのまま残り、その上に「この鍵の持ち主であることは、鍵そのものを見せずに証明できる」という層が乗る構図です。
■ 219KB という数字が示す、二段構えの理由
この提案がすぐに全面適用されないことは、提案文書自身が明示しています。第 1 段階では、チェーン上に載るのは従来どおり Ed25519 の署名です。ゼロ知識証明のほうはチェーンの外側で、ウォレットやインデクサ(取引データを整理して提供する仕組み)が検証します。台帳のルールを変えないため、ハードフォークを伴いません。第 2 段階では証明そのものをチェーン上の証跡として扱い、STARK と呼ばれる証明方式の基本要素で検証しますが、提案文書はこの段階へ進むことを証明サイズの縮小が実現することを条件として置いています。
条件が付いている理由は、参考値として示された測定結果に表れています。証明サイズが約 219KB、検証にかかる時間が 9〜10 ミリ秒、署名の生成に 12.5 秒(いずれも基準となる環境での値)。検証は速い一方で、生成に 12.5 秒かかり、生成物は 219KB あります。だから「まずチェーンの外で使い、サイズが縮んだらチェーンに載せる」という順序になっています。いま決まったのは最終形ではなく、最初の一歩の置き方です。
新規のもう 1 本は CPS-0034「Extending Plutus Core conformance testing」(提案者 kwxm 氏)です。参照実装とは別に Plutus Core の評価系やノードを実装する開発者が、自分の実装が参照実装と同じ振る舞いをすることを確かめられるよう、適合性テストを拡張する計画を扱います。議論には Sundae Labs の Amaru(別実装のノード)に関わる立場からの意見も入り、特定の実装に寄らないテスト設計が論点になりました。
■ 確定した 5 本は、どこを触る変更か
触る場所がそれぞれ違うので、分けて見ます。
- CIP-0168「More BuiltinValue Functions」 — CIP-0153 が導入した、値の扱いを効率化する型に操作を追加します。値に含まれる発行ポリシーの一覧を取り出す
policies、指定したポリシーだけを残すkeepPolicies、指定したポリシーを除くdropPolicies、トークンの種類数を数えるassetCountの 4 つ。ひとつの値の中でプロトコル固有のトークンと一般の資産を分けて検証する作業を、安全で監査しやすい形で書けるようにするものです。 - CIP-0172「Self-Usable Transaction Outputs」 — 取引が、自分自身の出力に入っているスクリプトやデータを検証時に参照できるようにします。現在は禁じられているため同じスクリプトの複製を証跡側にもう一度入れる必要があり、提案文書はこの重複を「取引サイズを増やし、その結果として手数料を増やし、利用者が負担する費用を直接押し上げる」と書いています。分散型アプリの配置を、ひとつの取引で完結させられるようにする変更でもあります。
- CIP-0183「Conflict-Based Fee Priority in Mempool」 — 承認待ちの取引が置かれる領域(メモリプール)で、同じ UTxO を使おうとする取引が競合したとき、先着順ではなく手数料の高いほうを残します。現在の先着順では有利になるのが設備側だ、というのが提案文書の指摘です。ブロック生成者の近くに機器を置く、専用の中継網を持つ——そうした投資ができる側が勝ちます。範囲の限定が重要で、提案文書は「台帳のルールも、手数料の計算式も、取引の形式も変わらない。変わるのは競合する取引をどう受け入れるかというメモリプールの判断だけだ」と明記しています。
- CPS-0028「Approaches to non-strict UPLC evaluation」 — 実行系が値を先に評価してしまう方式(正格評価)に由来する課題を整理した文書です。評価を遅らせる
Delayと取り出すForceは既にありますが、以前の評価結果を覚えていません。文書は「同じDelayされた項に対してForceを繰り返し使うと、そのたびに再評価される」と説明します。使える資源に上限があるチェーン上では、この再計算がそのまま費用になります。 - CPS-0033「DRep Voting Power Concentration」 — 次章で扱います。
CPS と CIP の違いにも触れておくと、CPS は「解決すべき課題はこれだ」と定義する文書で、CIP は「こう解決する」と方式を出す文書です。今回確定した 5 本のうち 2 本が CPS だというのは、解き方が決まったのではなく問いの形が決まったことを意味します。
■ 票の偏りが、技術的な課題として定義されました
SIPO の観測範囲でとりわけ重いのは CPS-0033「DRep Voting Power Concentration」です。委任による投票という仕組みそのものの性質を扱っています。
stake-weighted voting models have a structural tendency to concentrate power over time
(保有量に応じて重みを付ける投票の仕組みは、時間とともに力が集中していく構造的な傾向を持つ)
構造的な傾向だと書いている点が重要です。誰かの振る舞いが悪いから偏るのではなく、仕組みの形からそうなる、という立て方をしています。根拠として文書が引いているのは Beyond MVG による分析で、エポック 537 から 609 にかけて、DRep の投票力について中本係数(少数の主体が過半を占めるのに必要な数。小さいほど集中している)が低下し、ジニ係数(偏りの度合い。大きいほど偏っている)が上昇したという内容です。
ただし文書は、偏り=悪と単純化していません。「一部の集中は正当でありうる(例えば、信頼された機関としての委任先)」一方で「他の集中は問題でありうる(例えば、少数の主体が結果を左右する場合)」と両方を書いています。数が偏っていること自体ではなく、それが結果を決めてしまう状態が論点だという整理です。残された問いとして挙げられているのは、どの指標で測れば「偏りすぎ」と言えるのか、台帳の側で DRep の投票の重みに飽和曲線(一定量を超えると重みの伸びが鈍る仕組み)を導入すべきか、資格情報を複数に分けて回避されることをどう防ぐか、といったものです。
最後の問いは、SPO の世界を知っている人には見覚えのある形だと思います。ステークプールには飽和点があり、ウォレットはそれを表示し、委任者はそれを見て分散させる——という循環が既にあります。同じ考え方を投票の側に持ち込めるかどうかが、いま問いとして立てられたということです。ここで明確にしておくと、起きたのは問題の定義が公式のプロセスに載ったことであって、飽和曲線の導入が決まったわけではありません。
■ 次に見るもの
SIPO は 8 月 7 日、Charles Hoskinson 氏の「Wallets in 2026」を扱った記事で、AI が攻撃側の制約を外したあとに資産をどう守るのかという問いを記録しました。CIP-0197 は、その問いに対して改善提案プロセスの側から出てきた具体的な一手です。耐量子の話は「いつ来るか分からないもの」として扱われがちですが、鍵の設計を変えるには、既存の資産を動かさずに移行できる経路を先に作っておく必要があります。二段構えは、その経路づくりに相当します。
そして同じリストの上に、票の偏りという別種の課題が並んでいます。片方は「鍵を破られたときに資産を守れるか」、もう片方は「票が偏ったときに決定を守れるか」。守る対象は違いますが、どちらもひとつの点が落ちたときに全体が落ちる形になっていないかを問うています。
この先で確認したい点は三つです。CIP-0197 の第 1 段階がどのウォレットで実装されるか——台帳を変えずに始められる設計なので、最初の実装はウォレットとインデクサの側から出てきます。CPS-0033 に対する CIP が出てくるか——課題の定義は載りました。具体的な方式が提案として出てくるか、出てきた場合に複数資格情報による回避をどう扱うかが焦点です。CIP-0183 の適用範囲が実装段階でも守られるか——ここが広がると影響範囲が変わります。
改善提案のリストは、決定の記録ではなく検討の記録です。今回確定した 5 本も、確定したのは文書であって、採用までには別の段階があります。それでも、何が問いとして立てられたかは、これから何が議論されるかを先に教えてくれます。票が偏るという現象が、感想ではなく番号の付いた課題になった——今回いちばん動いたのは、そこだと考えています。
一次ソース / 関連リンク
- Cardano 公式による改善提案プロセスの最新スナップショット(2026 年 8 月 23 日)
https://x.com/Cardano/status/2091495197897056338 - CIP-0197: Post-Quantum ZK Signatures for HD Wallets(提案本体)
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/pull/1242 - CPS-0034: Extending Plutus Core conformance testing(提案本体)
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/pull/1244 - CIP-0168: More BuiltinValue Functions
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/blob/master/CIP-0168/README.md - CIP-0172: Self-Usable Transaction Outputs
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/blob/master/CIP-0172/README.md - CIP-0183: Conflict-Based Fee Priority in Mempool
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/blob/master/CIP-0183/README.md - CPS-0028: Approaches to non-strict UPLC evaluation
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/blob/master/CPS-0028/README.md - CPS-0033: DRep Voting Power Concentration
https://github.com/cardano-foundation/CIPs/blob/master/CPS-0033/README.md - チャールズ・ホスキンソン氏動画「Wallets in 2026」紹介・解説・全翻訳(SIPO.TOKYO)
https://sipo.tokyo/post-47253/
