Binance は 11 月 3 日、日本時間 10 月 30 日早朝の流出について初期報告を公表し、攻撃者が社内のウォレット署名サービスへの不正アクセスを悪用したと明らかにしました。入口は開発者のパソコンで、「自分で鍵を持つ」「残高を証明する」「ゼロ知識で証明する」がそれぞれ別の層を守っていることが、この事件でよく見えるようになりました。
ADA や NIGHT を持つ方に向けて、何が防げて何が防げないのかを順に整理します。
開発者のパソコンから署名サービスまで、約 4 か月
報告によると、始まりは 6 月です。ウォレットの運用を担うエンジニアが、AI コーディングツールを入れるときに、改ざんされた Homebrew (開発者向けのソフト導入ツール) を使ってしまいました。Binance は異常を検知し、端末と認証情報を入れ替えています。
9 月には、別のエンジニアに偽の採用面接が届きました。求人サイト経由で接触があり、面接を 2 回重ねたあとで渡された「課題」のリポジトリに、マルウェアが仕込まれていました。
10 月 20 日、攻撃者はこの端末と社内の AI ツールを使い、さらに 2 人のエンジニアの端末を掌握します。そのうち 1 人の端末には、コンテナを展開できる権限のトークンがありました。10 月 29 日 (UTC)、攻撃者は盗んだ認証情報でコンテナを展開し、通常の出金手続きの外で取引を発行しました。
“The attacker exploited unauthorized access to an internal wallet signing service.”
(攻撃者は、社内のウォレット署名サービスへの不正なアクセスを悪用した)
日本時間 10 月 30 日 05:05 から、XRP・SOL・BTC などが攻撃者のアドレスへ送られました。Binance が公表した影響額は約 63.4 億ドル、凍結または差し止めた額は約 28.5 億ドルです。損失は Binance が負うとしており、10 月 31 日時点で影響を受けたトークンの 98% を補てんしたと報告しています。
出金を止めても流出が続いた理由は EIP-7702
Ethereum では、別の仕組みも使われました。EIP-7702 は、アカウントが自分の実行権限をスマートコントラクトに委任できる仕組みです。攻撃者はこれを使い、自分のコントラクトにホットウォレットの一部の実行権限を持たせました。
委任は台帳の上に残るので、Binance が出金サービスを止めても消えません。取り消すには、同じウォレットから無効にする委任へ署名し直す必要があります。ここで効いたのが、鍵を分けて署名する MPC という方式でした。
“Because the hot wallet used Multi-Party Computation (MPC), there was no single private key that could be used to immediately revoke the malicious EIP-7702 authorizations.”
(ホットウォレットは MPC を使っていたため、不正な委任をすぐ取り消せる秘密鍵は 1 本もなかった)
Binance は専用の手順を組み、日本時間 09:10 に委任を解除しました。最後の不正送金が確定したのは、その少し前の 08:56 です。
鍵については、Richard Teng 共同 CEO が 10 月 30 日の時点で、秘密鍵が流出した証拠は見つかっていないと述べています。鍵を分けて守っていても、署名を頼む経路に入られると、正しい署名が出てしまう。今回の事件のいちばんの教訓はここにあります。調査は続いており、結果は第三者の独立レビューを受ける予定です。
自分で鍵を持つと変わること、変わらないこと
自分のウォレットで鍵を持っていれば、取引所の署名サービスが破られても、その経路で自分の資産を動かされることはありません。Cardano では、ADA をウォレットに置いたままステークプールへ委任できます。Cardano の開発者向けドキュメントは “You only delegate your rights to participate in the protocol, not your actual funds.” と説明しており、委任するのはプロトコルに参加する権利で、資金そのものではありません。
一方で、変わらないこともあります。Binance の報告によると、同社は 2026 年だけで、北朝鮮との関連が疑われる攻撃を 57 件検知して防いでいます。手口には、偽の採用面接、開発ツールを装ったソフト、偽のビデオ会議アプリが並びます。どれも個人のパソコンにも届く手口です。
もう 1 つの違いは補償です。今回 Binance は損失を自社で負うと表明しましたが、自分のウォレットで同じことが起きても、肩代わりしてくれる組織はありません。自分で鍵を持つことは、取引所の事故から距離を置く代わりに、署名の中身を確かめる役目と、復元フレーズを守る役目を自分で引き受けることです。
Ethereum を使う方は、EIP-7702 の委任の署名にも注意が必要です。ethereum.org は委任先のコントラクトを “effectively an extension of the user’s EOA, so any flaw can be catastrophic” (実質的に自分のアカウントの延長で、欠陥があれば致命的になりうる) と説明しています。委任はゼロアドレスへ委任し直すことで解除できます。
残高証明が答える問い
Binance の残高証明 (Proof of Reserves) は、利用者の残高を集計した木構造に、ゼロ知識証明の一種である zk-SNARK を組み合わせています。個々の残高を見せずに、全員の残高が合計に含まれていること、残高がマイナスの口座が紛れていないことを示す仕組みです。
これが答えるのは、ある時点で資産が足りているかという問いです。今回 Binance は、補てんの状況をこのページで確かめられると書いています。事故のあとに約束が守られたかを外から確認できるのは、大きな価値です。ただし、誰が署名サービスに入れるかという問いには、残高証明は答えません。
Midnight の守備範囲
流出の直後、Charles Hoskinson 氏は X に “Midnight Fixes this” と投稿しました。どう直すのかは、その投稿には書かれていません。初期報告が出たいま、Midnight の公式ドキュメントと突き合わせて考えられるようになりました。
公式ドキュメントが説明する Midnight の中心は、データを見せずに正しさを証明するゼロ知識証明と、必要な相手に必要な分だけ見せる選択的開示です。シールドされた資産は金額と持ち主を隠し、閲覧鍵で読み取りを許すこともできます。NIGHT 自体はシールドされておらず、残高と送金は公開されています。
今回破られたのは、パソコン、導入ツール、権限トークン、署名サービスでした。SIPO が確認した範囲の公式ドキュメントに、これらの守りについての説明はありません。Binance の残高証明がすでにゼロ知識証明を使っていたことも考えると、ゼロ知識証明があれば署名の経路まで守れるとは言えません。この流出を Midnight が防げた、と書ける材料は今のところありません。
Midnight が役に立つ可能性があるのは、見せずに証明する場面です。残高証明のように、利用者の情報を出さずに全体の正しさを示す用途とは、設計の相性がよいと考えています。ただし、取引所向けにそうした製品があることを公式で確認できたわけではありません。
逆向きの論点もあります。今回の凍結や追跡は、公開された台帳の上で資金の動きを追えたことに支えられました。Midnight の開示は持ち主が選ぶものなので、シールドされた資産に移った資金について、盗んだ側が自ら開示するとは考えにくいでしょう。データを守る技術と資金を追う仕組みをどう両立させるかは、Midnight が実際に使われるほど問われていくはずです。
次に確かめること
- Binance の更新版の残高証明 — Teng 氏は修復の完了後に公開すると表明しました。Binance の Proof of Reserves ページで、残り 2% の補てんまで確かめられるかを見ます。
- Binance の詳細な技術報告と独立レビュー — 11 月 3 日の報告は初期報告です。公式ブログに続報が出たら、秘密鍵と署名経路の記述を読み直します。日程はまだ示されていません。
取引所に置いている ADA や NIGHT の額と、自分のウォレットの復元フレーズの保管場所。この 2 つは、今日のうちに確かめられます。
ことば
- EIP-7702 — 2025 年の Ethereum のアップグレードで入った、アカウントが実行権限をコントラクトに委任できる仕組みです。便利な一方、今回は委任が台帳に残ることで止血が遅れました。
- MPC (マルチパーティ計算) — 1 本の秘密鍵を持たず、複数の参加者が分担して署名する方式です。鍵を 1 か所で盗まれにくくする代わりに、緊急時の取り消しには専用の手順が要ることが今回分かりました。
- 残高証明 (Proof of Reserves) — 取引所が利用者の資産に見合う準備金を持っていることを示す仕組みです。流出のあとは、補てんが本当に行われたかを確かめる手段にもなります。
一次ソース / 関連リンク
- Binance 公式 X (初期報告の告知)
https://x.com/binance/status/2117626126214504729
Binance 公式ブログ「29 October 2026 Binance Security Incident: Initial Findings and Response Update」(binance.com)
- Richard Teng 共同 CEO の X (10 月 30 日・秘密鍵と更新版の残高証明について)
https://x.com/_RichardTeng/status/2116072080525656150
Binance Proof of Reserves(binance.com)

Ethereum Improvement Proposals

ethereum.org「Pectra EIP-7702 guidelines」
ethereum.org

Chainalysis
Cardano 開発者向けドキュメント「Consensus & Staking」(developers.cardano.org)
Midnight 公式ドキュメント「Ledgers」(docs.midnight.network)
Midnight 公式ドキュメント「Glossary」(docs.midnight.network)
- Charles Hoskinson 氏の X (10 月 30 日)
https://x.com/IOHK_Charles/status/2115949830354977136 - SIPO: Binance で大規模流出、ADA・NIGHT を持つ方へ現時点の整理 (10 月 30 日)
https://sipo.tokyo/signal-20261030-87e05677/
